昭和45年11月11日 朝の御理解



 信心を進めて行くことの為の心得(信心の心得)

 真の道の心得も信心の心得も此処にありますね。神戒神訓の中にあります。一言信心を進めて行く事の為の心得、どうぞいいですか。信心をいよいよ進めさせて頂く事の為の心得に一番大事な事は、御礼の為の精進が為されると云う事です。御礼の為の精進、ね。そこでも申しました様に真の道の心得の始まりに「神國の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬ事」とか又次に「天の恩を知りて地の恩を知らぬ事」とか、ね「幼少の時を忘れて親に不孝の事」とかとまあ真の道の心得が此処にずらっと御座いますがね、
 ですからそう云う例えば親の大恩が分かったら、親に報いる精進が為されなければならないし、ね、天の恩地の恩が解かったら天地の御恩徳に対して神恩報謝の真が捧げられなければならないし、ね。あの神の恩を神国に生まれてから神と皇上の大恩を知らぬ事と云う所もやはり同んなじ事。ね、知ったらそれに報いると云う事。そう云う知らぬ事とこう云う風に教えて、だからそれをま教えて頂くのがいわば信心。だから教えて頂いたらそれに対する所の御礼の為の精進が為されなければならない。ね、
 甘木の初代の先生が仰って居られたと云う事で御座いますけれども、信心の内で一番大切な云うなら大部分を為すものは御礼だと云うて居られます。ね、御礼七分に願いが三分と云った様な風にも言って居られます。ね、そこでなら最近まあ合楽で言われて居るその願いと云う事なんですけれども、一心の真を捧げて願うと云う事に成るね、願うと云う事になればおかげを受けると云う事。ね。
 おかげ受ける事になったらそのおかげの事に対して限りない御礼が、ね、一ぺんお礼を云うたらそれで良いとか、お礼参りをしたらそれで済んだと云う事ではない。御礼のための精進が為されなければならない。例えばそりゃ願いと云う事にもですねえ、願いのどう云う風にお願いをしたならばおかげを頂くだろうかとこう云うてまあ願いの工夫を致します。ならね、その御礼の為の工夫が為されなければならない。
 御礼の為の修行が精進が為されなければならん。私は今日此処ん所を思わせて頂くのに、御礼の為のいわば精進が一生懸命為される所に、これはおかげを頂くと云う事じゃ無くてね、信心を進めて行く、ね、信心を高めて行く私はこれは心得だと思います。高度の信心と云う事を申しますならもう本当に自分の周辺を思うた時にです、お礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りない。しかも日にちが、それだと思うですね。
 だからお礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りない。ね、だから口で言うだけじゃ足りない。だからお礼の為の精進が為されなければならない。お礼の為にはお参りもする。お礼の為に御用もさせて貰う。ね、これはいやが上にも信心を私は進める高めて行く私は心得だと今日思わせて頂きます。で、そこの所、それでお礼の為の御礼と云う事が御教えの中に出て来ないんですよね。
 信心の心得、真の道の心得、いわばおかげを頂く為の心得と云った様なものがいっぱい在るますけれどね。信心をいよいよ進めて行く為の心得と云うのがちょっと見当たらない。ね、天の恩を知りて地の恩を知らぬ事。成程天の恩を知って居ったけれど地の恩を知らなかったと云うてその地の大恩徳に対してお礼を知った所から、まお礼の信心が進められて行くわけ。ね、だから結局ね。
 此処ん所はだからおかげを受ける方の側ね、いわゆる信心をさせて頂く者の方側がです工夫して行かなければならない所だと思うですね。御礼の為の精進をして行くと云う事は。ね、本当にどちらを向いてもお礼の中に埋まって居る。あれもおかげ是もおかげと思う。ね、そのおかげを頂いて居る事にどの様なお礼させて頂こうか、どの様な御礼の為の信心をさせて頂こうかと云う工夫。
 是は信心をいよいよ高め進めて行く心得である。ね、一ぺんお礼を云うたらそれでおしまい。お礼参拝したらそれで済んだと云う事ではない。それこそ是で済んだとは思いませんと云う、なら思うとるだけじゃいかん。是で済んだとは思わぬならその思わないそこに精進が限りなくされなければならない。しかし信心が美しいですね、お礼の信心です。だから是はその一心の真を捧げて願うと云う一生懸命のそれに匹敵する程しにですね、私共願う時には一生懸命に誰でもまあなるもんですけれど、ね。
 それお礼を申し上げる時にも一生懸命のいわゆる精進ですからね、精進させて頂くと云う事は素晴らしく美しい事なんです。下さい下さいと云うのでなくて、お礼の為に一生懸命精進して居る、お礼の為に一生懸命修行させて頂いて居るく。これはまあ気分もいいですねえ。お願いをせんならんからこげに努めにゃならんと云うのではなくてね、お礼の為にこの様に努めさせて頂いて居ると云う事に成ったら。
 ところがそこにはどうしてもお礼の為にと云うのは迫力を欠ぎます所に今日わざわざ精進と云う事を頂いたと思うですね。御礼の為の精進と云う事になる。精進する。精進すると云う事は心に懸け通すと云う事だと思うんです。心に懸け続けると云う事だと思う。仏教の精進も同じ事。今日は誰々さんの日だからとね、仏様の命日などには精進を致しますね。今頃そんな事をする人はあんまり少ないかも知れませんけれども、今日は一家中で生臭気を絶たせて貰う、ね。
 今日は爺ちゃまの日だから婆ばしゃまの日だからと云うて爺ちゃま婆ちゃまの好きだったものを一つも作ってお供えをすると云うだけではない、そこにそれで済んだとは思わないと云う事。だから精進すると云う事になる。そこでその日は朝からね、もういりこ一つ使わんで精進料理をさして貰う。精進とはそう云う事である。心に懸け続ける為にと云う事になる、精進すると云う事ら信心が高められるだろう、信心が進んで行くだろうと思います。まあ進んだ信心とはそう云う信心だと思う。
 お礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りない、と云う程しにですやはり自分の周囲におかげを受けて居る事実をそこにね、大任さして貰う。ね、それがなら神の天地の天の恩を知りて地の恩を知らぬ事、神國の人に生まれて神と皇上の大恩を知らぬ事と、その大恩をです分かれば分かる程ですね、天の恩地の恩を分かれば分かる程、その御恩恵御恩徳に浴して居る事に対して、お礼が真が捧げられるなければならない。ね、
 それが恩を知った人の姿である。ね、いわゆる報恩の恩に報いる生活。だから言えばま簡単に何時も云うて居る事ですけれども恩に報いるその生活をして居る様であっても実際は迂闊なんです。ですから信心その恩に報いる生活をどう現すかと云う事。ね、神の恩を知る、天地の恩を知る、知ったらそれをどう現すかと、それが御礼。ね、しかも言葉で有難う御座います、今日も有難う御座いますと云うだけではなくて、有難う御座いますと云うその心を形に現して行くのが精進なんです。ね、
 そのなら精進とはです、今日は爺ちゃまの日だから婆しゃまの日だからと云うて甘いものの一つも又は辛い物が好きだったら辛い物をと云うて、真心を込めて奉仕する、だけではなくてです、今日は精進日だとしてね、生臭気でもね頂かん様に心に懸け通すと云う事。それが私しゃお礼の為の精進をして居る人の姿であると思う。今日はもうとことんそこの所をですね、私共が一心の願い一心の真を捧げての願い、こりゃもうおかげを受けて居るその上にまだ願わなければならない事が一杯ある訳なんですよね。
 今日西岡さんが、お祭を済んでからお話を聞かせて貰いよったら、とにかく私くらい健康のおかげを頂いて居る者は無いとこう云うんですよ。もう私も何と云うても健康が第一ですよとね、第一ですよ云う程しの健康を頂いて居るんですものね。そんならその健康のおかげを頂いて居ると云う事が、本当に分かって居ると云う事は、その御礼の為に精進をして初めて、健康のおかげを頂いて居ると云う事を、本当に分かって居ると云う事が言えるんじゃないでしょうかね。
 いろんな人間関係で現在悩んで居られる。金銭関係でもいろいろ行き詰まりを感じで居られる。ところがそう云う事だけが、パアーッと目の前にこうクローズアップされて来るん訳なんですよね。だからえらい一人が難儀しよるごと感じる訳なんですよ。けどふっと自分に思い返らせて頂くと、私くらい健康、私と友達がやっぱり、虎年で大正三年生まれ、私そこで西岡さん、ああた若いばいちと、もう私も若返る稽古をせにゃいかんなと云って話した事でした。
 まあだそれこそ奥様を亡くして居られますけども、是から奥さんをまあ迎えようと云うて居られるのです。私などとても、そげな元気はなかろうごたる感じがするんです。ね、只それ程しにおかげを頂いて居られる。はあもうなんちゅたっちゃ、やっぱ健康が第一ばいと云うのが、言葉だけではなくて言葉、話のあやだけではなくてです、ほんとに第一と心得て、分からせて頂いたらその事の為に、私は精進させて頂くと云う様な信心がそこにもし出来たらね。
 私しゃ経済の事やら人間関係が先ず必ずおかげになって来ると思うですね。それにその事が本当に第一のおかげを受けて居ると云う事が本当に実感できたら、ね、報いん訳には居られん。その事にお礼の為の精進せずには居られん。ですから、私共はその様にです、例えば自分の周辺を眺めて見ると、もう本当におかげを受けて居る事ばあっかりであって、難儀と云うのはほんの僅かである。ね、一と事か二た事なんです。ね、
 これはまあそうなんですけれどですね、だからそこの所の内容は願うて行くと云う訳です。ね、一つか二つかの難儀なところを、一心の真を捧げて願うて行こうと云うのである。しかもその願いと云う事に、筋道立てての願いと云う事が、最近云われて居る様に願って行くならです、ね、だからそこに願った事に対する、改めてのおかげが頂けるに違いがない。だからそのおかげを受けられた時にはですね。
 為に一つ御礼の為の精進と云うことをです、心に懸け通しに懸けさせて頂いてね、ならそれではなくてもおかげを受けて居る。受けて居るけれどもその事にはです、ね、ほんとにそりゃ人間のまあ何て云うですかね、悲しさでしょうね。あれもこれも足ろわなければおかげではないごと思う。病気するなら健康にならにゃ、人間関係又は経済の為に苦しんで居るとですその人間関係がスムーズにいったり又は経済の問題が不自由せんで済む程しのおかげを頂かなければね、おかげと思いきらん、信心が薄い間は。
 だからどうでも頂かなければならん。なら頂いた時がですたい、ね、お礼参りをしたらそれで済んだ、お礼を云うたらそれでもうしまえたと云った様なものじゃあない、そこからです、これで済んだとは思いませんと云う信心がね、の稽古と云うかそう云う信心を身に付けておかなければいけないと云事なんです。ね、そこからですね、例えば願いのその願い以上のおかげを受けてです、此処に有難いと思うたらその有難いと云う御礼の為の精進をですね、さして頂くと今度はそのなんと云うですかね。
 おかげが容易う成って来ると云うか、自分もこんなに気分が良い事はない。御礼の為に、日日精進させて頂いて、一心の真を捧げて願う信心からね、一心の真それと同等にです、一心の真を捧げてね、御礼の精進をさしてもらうなんて、素晴らしいでしょう。ところが御礼の事に成って来るとですたい、ね、一ぺん言うたらおしまいの様な気がするんです。ね、そこでまあそこは限りなく願うて行かなきゃならん、限りなくおかげを受けて行かなきゃならんが、受けたおかげに対してです。
 私共は御礼のために、精進と云う一つの言葉をですね、よし信心を進めて行く、高めて行く一つの心得としてですね、これはもう絶対の心得。ね、私は此処んところを今日頂かせてもらうてね、ほんなこと御礼のために、精進させて頂いたら素晴らしかろうと私思うですねえ。美しい、ね、御礼のために腹を立てない。御礼のためにお参りをする。御礼の為に願いと同等のいわば精進が、こう出来てきたらなるほどこれは、一段と信心が輝かしいものになって来る。ね、
 ところが不思議にです、本当におかげを受けたと、指折り数えてこげおかげを頂いて居る、お金も不自由せんごとなった、家族もおかげで円満におかげ頂いて、経済の方もおかげである、おかげ頂くと云う様な事になって行くと、不思議と信心が緩んでくる。これは不思議なんです。そこでです私共御礼の為の精進と、云った様なもう最高のその心得と云った様なものをね、本当に身に付けて居ったらね、素晴らしい事になって来るだろうと思う。ね、願う事が余りにも多い。
 だから一生懸命願って居る。しかも一心の真を捧げてである。ね、だからそう云う間が信心が生き生きしとる、願いの信心の時は。ところがね、私はそのもう一つ上にです、お礼の為にそれと同等の精進が出来る様に成ったら、これこそが本当の信心じゃなかろうかと思う。三代金光様が御述懐の最後の言葉の所に仰っている居られるね、「願い以上のおかげを受けて居るお礼ばかりを申して居ります」とこう仰って居る。
 お礼の為にあの様な大変な修行をなされて居られた。ね、何十年間と云う間をです畳半畳の中に座り込まれての、あの御修行と云うのがあった。それこそ願い以上のおかげを頂いて居ると云う事に対するお礼の印があの様な御修行になった訳です。しかもそのお礼がなんぼうお礼を申し上げても足りないとこう云うその又お詫びばかりを致して居りますと。だから御礼の為であり、お詫びの為にあの様な御修行が、為されて居られたと云う所がね、もうぎりぎり結局ですね。
 三代金光様の御信心の素晴らしさをそこに感じます。ね、そりゃもう願いの所は真を捧げてのね、欲しい物も無くなり思うことも無くなられる程しの御境地がね、それでなら願っておいでられて、願い以上のおかげを受けられて、受けられた後はもうおかげを受けたからと云うて、それをおろそかになさらずにね、そのお礼ばかりを申しておりますと。お礼ばかりを申しておりますけれどもまだお礼が足りません。
 そこでそのお礼の足りないお詫びばかりを致しております、と云うそのお礼やらお詫びの印が、あの様な厳しい御修行に現れて居ったと云うことなんです。ね、私は今日皆さんに分かって頂きたいのはね、私共はおかげを受けて居る。ね、西岡さんじゃないけれどもそれこそ第一と云う程しの健康のおかげを頂いて居る。ね、けれどもその頂いて居るおかげが頂いて居ると思うだけであって実感としてです。
 その事に対するお礼のための精進が出来ない。そこでまあ相済まん事ですけれどもなら足りない所を願うて経済の上にも人間関係の上にもなら西岡さんの場合であるならば願い一心の真を捧げてお願いにならなきゃいけない訳になる。ね、そこでそりゃもうお願い一心の真を捧げて願いよるからおかげになるものと仮定してです、ね、それこそ願い以上のおかげを受ける事はもう間違いないとしてです、ね、
 金光様じゃないけれど、それこそお礼の信心の為の修行、御礼の為の精進。そして御礼を申していきよるうちにです、まぁだどげんお礼を申し上げても、お礼申し上げても精進しても、精進しても足りない事に、金光様は気が付いて居られる訳ですねえ。そしてそのお礼の足りないお詫びばかりをして居りますとおっしゃる。どうにも、で出んごと素晴らしかです。ね、それがだから私は今日は最高の信心だと云うとりますね。
 申しとる訳です。だから私共がなら願いの信心の時にです、もう既にお礼の為の信心の精進させて頂く稽古又そう云う心得心がけと云うものを今こそしっかり作っておかなければならんと云う事になるのではないでしょうかね。今日私教典にはそう云う言葉が見当たりません、ね、御礼の為に精進すると云う程しの信心がです如何に信心を高度なものにして行くそのこつであると云うか心得である事をです。
 私は今日は皆さんに聞いて頂いた。ね、どうぞ一つ御礼の為の精進が出来る程しのですおかげ、今月は一心の真を捧げての願いになろうと云う願ってなら行きよりますから必ず是がおかげになるでしょう。ですから恐らく私はこれは来月の言葉になるのじゃないかと思うのですね十二月の。御礼の為の精進、いよいよ本当に御礼の為に精進させて貰わなければ居られん程しのおかげを頂きたいものですね。
   どうぞ。